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HAKONE EKIDEN│箱根駅伝とは
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東京箱根間往復大学駅伝競走 コース紹介

より大きな地図で 第88回箱根駅伝コース を表示

1区(21.4km)

大手町〜鶴見

駅伝の流れを掴むための重要区間。スローペース展開が多く、六郷橋までは集団走が続く。六郷橋の下りからラスト3キロはスプリントレースになる。

2区(23.2km)

鶴見〜戸塚

各校のエースが集う華の区間。距離が長い、難所“権太坂”とラスト3キロの上りがヤマ場。

3区(21.5km)

戸塚〜平塚

海辺からの風の影響を受けやすい。ゆるやかな下りが続く前半で、いかにスタミナを残すかがポイント。

4区(18.5km)

平塚〜小田原

前半は平坦コース。後半は細かなアップダウンが続き、15キロ付近の酒匂橋が勝負ポイント。

5区(23.4km)

小田原〜芦ノ湖

通称「山上り」。カーブの多い標高差864mを一気に駆け上がる難コースにして箱根駅伝の看板区間。

6区(20.8km)

芦ノ湖〜小田原

「山下り」。ペースが速く、腿に負担がかかるため、下りきってからの3キロがポイント。

7区(21.3km)

小田原〜平塚

10区間の中で一番気温差が激しい。コース自体は比較的平坦だが、ペース配分が難しくもある。

8区(21.5km)

平塚〜戸塚

平坦なコースが続くが、後半から徐々に上り坂に入る。ラスト5キロの遊行寺の坂が最大の難所。

9区(23.2km)

戸塚〜鶴見

起伏の多い長丁場、冷静なペース配分が要求される。優勝&シード権争いにも重要な区間。

10区(23.1km)

鶴見〜大手町

明暗が分かれる最終区間。重圧や焦りがペースを狂わすこの区間は勝負強さがかぎとなる

駅伝コラムは、2009年度、第16回「AOYAMA GREEN FESTIVAL(大学同窓祭)」  のメインイベント駅伝「走」のHPに7回連載されたものです。執筆者:菊地真美 キャスター・ヴォーカリスト・エッセイスト。中等部・高等部(21期)を経て、英米文学科1977年卒。
駅伝コラム 7 箱根は一日にして成らず

いや、箱根駅伝がお正月2日、3日の二日にわたって行われることは、私も 分かっています。じゃなくて、33年ぶりに復活出場を果たした青学の陸上競技部が、これからも駅伝に参加していかれるかどうか、という意味で、です。


10月の予選会をめざして、夏の間きびしい練習を続けてきたランナー達。先週(9月17日)に北海道での最終合宿を終えて東京に帰っていらした原晋監督に、お話を伺うことができました。「はっきり言って、結構たいへんですよ」と、明るくおしゃいます。駅伝をめざす部員たちは、早朝から練習して、毎日夜10時就寝という合宿生活を続けてきました。そして、毎日30kmは走る。毎日!ところが、今年の部員は1年生が多い。「数カ月前まで高校生だったわけですからね。高校生の陸上競技は5000mが最長。それが駅伝となると、その4倍の距離を走るわけだから、それだけの体力をつけるのは、そんなに簡単じゃない。」


監督の立ち場としては、各学年10人ずつメンバーが欲しい。駅伝に常連の大学は50人位の部員を抱えているのに、青学は総勢28人。


でも、原監督は「競技なんだから、やっぱり勝負は当然。だけど、学生のスポーツっていうのは、それだけじゃないんだ」とおっしゃる。「みんなで合宿し、忍耐する、考える。自分を見つめて、チームを想う。そういう経験をこれからの人生で生かして欲しい」と。単に結果として上位になればいいというのではない。ただ勝つことが目的なら、大学に入ってやらなくてもいいし、勝ってスター気取りになると何が大事かを見失わけです、と寛い視野に立つ原監督。


昨年の予選会で青学が予選通過した時の映像を見る機会があったのですが、監督、躍り上がって喜んでいらした。本当にうれしそうでした。奥様が「もっと厳しくしてもいいのでは?」と苦笑なさる程、選手を可愛いがる監督。いっぽう、現在の陸上部キャプテンの荒井輔君は、「監督ゼンとしてないで、僕たちの視点まで降りてきてくれるので、話しやすい」と思っているそうです。そういう信頼関係があったから、これまで選抜には選手を出しても、チームで参加できなかった時期も耐えて来られたのでしょう。


正直なところ、現在の青学のランナー達は、ゆとりの状況ではないそうです。


故障者も出てるし、みんなちょっと元気がない。そこはひとつ、盛り上げてあげなくちゃ! 


でも、「ずっと長い目で応援して欲しい」と監督は仰っていました。応援する側も、いい時だけ盛り上がるんじゃなくて、常日頃から支援する気持ちを持たないと。だから、箱根は一日にしては成らず!


*コラム執筆に際して、陸上競技部OBの谷川忠彦さん、今北普朗さん、大学スポーツチャンネルの澤木一真さんにご協力いただきました。

駅伝コラム 6 12年間の襷(たすき)が途切れたとき

このコラムを書き始めて、いろいろ資料を読み、お話を聞いていくうちにどうしても気になったのは、1976年のお正月の駅伝で、青学が途中棄権になっていることでした。「たすきの重み」などという言い方を聞くと、やはり棄権する選手というのは、その時の体調から来る苦しさに加えて、責任感に苛まれるという精神的痛みもあることは、想像に難くありません。


その時の様子が、校友会の資料の76年「陸上競技部」紹介記事にでていました。彼らは、まる1年を箱根駅伝出場のために費やしたと言っても過言でない程、練習を重ねたそうです。10回もの合宿を重ねた結果、予選会通過を果たしています。異常気象もあって、「主力選手がブレーキを起こし」て苦戦ではあったものの。ちなみに、『ブレーキを起こす』というのは、なかなか定義が見つからない言葉ですが、「評判通りの力を発揮して走れない」という意味(のよう)です。


そして、レースが開幕。往路12位と期待の持てる状況だった1月3日。最終の10区ランナーがスタートしたときに、気温が下がったのだそうです。ああ!やはりランナーの努力だけではどうにもならない外的条件ってのがありますよね。最終ランナーは、何度も倒れ、全身痙攣を起こしながら、何度も立ち上がって走ろうとした。しかし、ついに力尽きてゴールまであと120mというところで、昏倒したことが記されています。


そうか、それでもデータ上は「棄権」と記録されるわけですね。部員はみなランナーに駆け寄っている。何度も立ち上がろうとしたその選手の精神力を思うと、その内面はどんな葛藤だったのかを思わずにはいられません。さぞや無念だったことでしょう。翌年も青学が駅伝に出場していれば、杉崎さんも安心できと思うんですよね。それが、ずっとブランクで…。もう、そのことには触れられたくないのかも知れません。


でもやっぱり、伺ってみました。私は、そんな彼こそ、2009年の箱根出場をもっとも喜んだ一人だろうと思っていたからです。メールで伺ったのですが、やはり「『ヤッター!やっと箱根駅伝に出られる』と嬉しかったです。はしゃぎたい気分だった」そうです。当日の体調は、少し風邪気味で、走り始めた時点でいつもと体調が違う感じ。途中でストレッチしたり、走りを自重したそうです。気を失う瞬間は、「突然アスファルトが目の前に現れた」そうで、まさに昏倒。結果として青学が棄権となり、みんなに迷惑をかけて申し訳ないと思ったそうです。でも、ご自分にとっても大事な思い出だから、今も駅伝を観戦する時は、「みんな頑張って最後まで走って!」と応援なさっているそうです。


75年のインカレでは800mで6位に入っていらっしゃいます。卒業後も2年間、競技大会に出場なさり、「5年間掛けて徐々に走りを辞めました。現在健康のために走っています」とのこと。やっぱり走ることがお好きなんですね!電話ではとても素敵な声の男性でした。杉崎孝さん。今年も青学が予選会を通過するように、熱い声援を送っていらっしゃいます。


*このコラムは関連リンクなどから引用させていただいています。

駅伝コラム 5 寝転んでビール飲んでる場合か?

実は私、「若い人を寒いお正月に走らせて、苦しむ姿を見ながらテレビの前でビール飲んでるなんて、大人は失礼じゃないか?」と思っていたんです。1時間以上もタスキの重みを肩にかけて、孤独に、ある時は死にもの狂いで走る…。まるっきり運動系でない私などは、自分の出した訳ではない結果を背負わされ、チームメンバーのために自分に鞭打つ、というのは、なんか“ミリタリーちっく”だしなあ、などと思っていたわけです。


ところで、青学が2009年にブランクの最長記録、33年ぶりの駅伝に復帰を果たす前に、選抜チームで走ったランナーが4人いました。各大学チームが晴れやかに母校のユニホームを来てタスキをかけて走る中で、予選会で出場権を獲得できなかったチームの中から、良いタイムを出した走者10名が1つのチームを作って走る。その選抜チームで2005年に走った仲村一孝さんに話を聞いてみました。


まず、埼玉県の春日部出身で、中学・高校から陸上に力を入れて来た選手が、なぜ青学へ?「もちろん、駅伝の常連である大学に入れば、強い選手と一緒にトレーニングできる。チームも駅伝に参加できる。でも、自分が駅伝の走者に選ばれるかどうかは、分からないでしょ?」ごもっとも!穴です。子供の頃から箱根を目標にしていれば、学校選びも1つのストラテジー。「それに、自分たちで箱根に出られるチームになる、というチャレンジも魅力だ」という。中村選手の前後にも、選抜チームで3人が箱根に参加している。彼らの経験とデータは、青学にとって貴重だった。選抜チームに5年間選手を送れたから、2009年があったと言えるのでしょう。でも、独りでの参加はどんな気分だろうか?「自分たちの分も走って来てくれと言われて、闘志が湧いた」という。とはいえ、卒業後、実業団に入って駅伝にチームに参加した時に、「やっぱり、同じ釜の飯を食べていっしょに練習したメンバーと一緒に走るのが最高だ」と思ったそうだ。


では、2010年に向けてどんな想いをお持ちかと聞いてみました。「100回練習するより、1回出場するほうが役に立つ。2009年に一度箱根を走ったということは、とても大きな意味があったはず」だと中村さんは話す。「次回参加できれば、09年はマグレだったと言われなくなる。プレッシャーを感じないで、自分の力を発揮すればきっといい結果が出る」と、現在の陸上部にエールを送る。


では、そんな彼にとって、駅伝はどんな意味を持っていたのだろうか? 中村さん、少し考えてから「たぶん、自分の成長の場だったと思う」と答えてくれた。「箱根が出来たんだから…」と思えば、社会人になってからも、怯むことはないと。ランナーたちは学生時代を走りきって、大事なモノをつかみ取っている! なので、はい、安心してテレビの前で寝転んでビール飲んでいいみたいです。ただし、大事な2回出場に向けて、今年の予選会には大きな声援を!


*このコラムは関連リンクなどから引用させていただいています。

駅伝コラム 4 青学の箱根デビューは1943年

青学のスポーツといえば、野球は昨今大活躍ですが、陸上競技は申し訳ないのですが、あまりスポットライトを浴びてこなかったような印象。グラウンドが青山キャンパスにない、っていうことが、アスリートの存在をあまり感じない原因かも知れません。でも、陸上部は意外に(失礼)歴史が長く、今OBの皆さんが90年史を準備中。今回、このコラムのために原稿を見せていただくことができました。


日本の学校で陸上競技が始まったのは、1902年から。東大の運動会に各大学から招待された選手が競う600m走が呼び物だったそうです。当時の青学には陸上競技部はなく、活躍していたのは野球部。学校制度が違うのですが、中学部で活躍した選手たちが、早大の橋戸頑鉄、慶応の亀山万平として名を馳せ、やがて、日本野球会の大元老に!これからちょっと威張れそう?


やがて、大正初期に徒歩部が発足、それが1918年に陸上競技部創設につながります。この頃は、「日本中学界における陸上競技の名門」だった。Yeah! E.T.アイグルハートという宣教師の先生が、日本初の陸上用スパイクシューズをアメリカから持ち込むなどして、可愛がってくれています。ちなみにこの先生、英語賛美歌集を編纂された方らしいです。(つい、話が音楽のほうへ…)


さて青学は、何故か第2次世界大戦の最中の1942年に、箱根駅伝デビューします。残念ながら当時の事情はもう分からず、総合記録16時間41分59秒、総合順位11位(11校中)とだけ記されています。それから22年を隔て、1965年に2回目の参加。以後1976年まで12回連続出場を果たすことになるわけです。


ひとくちに22年のブランクと言っては、申し訳ありません。65年まで長期計画のもと、部員みずから、「強くて頭のいい」人材を求めて各地の高校を回りリクルート活動していました。それからずーっと、「記録を上げたい、実力をつけよう」と励んでくるのですが、毎年毎年キャプテンの報告では「人材不足」が嘆かれています。これは、今に至る。駅伝には10人必要なので、当初は槍投げの選手も取り込んでたり…。青学とはいえ、学生たちの資力は乏しい。そんな中で平地20kmを1時間10分で走れるように、試行錯誤のきびしいトレーニングを重ねていたそうです。青山〜綱島間マラソン通学が新聞に紹介されています。「合宿中の楽しみは、お味噌汁のオカワリ」というのが可愛い…いえ、あまりに疲れて食欲さえ無かった。駅伝は水飲みも禁止されていた時代です。ただ、当時の大木院長など先生方が熱心に応援していたことが伺えます。学生の駅伝って、「やっぱり全学挙げて頑張らないと…」ということが、やっと私にも分かって来ました!


*このコラムは関連リンクなどから引用させていただいています。

駅伝コラム 3 続・箱根駅伝の誕生

アメリカ大陸を横断しようという意気込みから、コース設定された箱根駅伝。


今でこそ、出場を熱望する大学がたくさんあり、予選会から話題になりますが、初めは、なかなか参加できる学校がなかったようです。というのも、時代は第1次世界大戦が終わったばかり。多くの犠牲者を出した日本で、大学に入学して陸上競技をやること自体、とてもラッキーことだったでしょう。それに、大学そのものも、今のように多くは無かったわけですからね。まして、チームを組める大学も少なかった。創始者の金栗四三らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、それに応じたのが早大、慶大、明大、東京高等師範学校(現・筑波大)の四校。なので、1920年の?第1回大会は、「四大校駅伝競走」の名称で行われたのでした。


第2回からは、法政大学、中央大学、そして青学にも縁のある東京農大が、さらに第3回には、日大、東大農学部、日本歯科大などが参戦し、第2次世界大戦までは、各回9校から13、4校が常連で参加していました。この頃は、開催期日も固定ではなく、「学生は学業が本分」というわけで、午前中は授業、午後スタートということも! レース途中で日が暮れて、暗闇の中を走る選手を地元青年団が松明を持って伴走したとか。また、山登りの5区はスタートとゴールしか決まっていなかったり、山中あまりの苦しさに泣き出す選手もいたとか。あるチームは選手の代わりに襷(たすき)をもらった人力車夫がホイさっと快走したこともあるらしく、なんだか素朴な雰囲気です。


実は、1955年までは関東学連が承認すれば、希望する大学は全て参加できました。それが56年から、秋の予選会で15チームに限定されるようになり、その後シード制が導入されるようになります。


青山学院大の初参加するのは、なぜか第2次大戦中、2年のブランクの後で開催された1943年第22回大会。その後22年の時を経て、1965年第41回大会に晴れて復帰します! この時はシード校10校の他は出場枠が5でしたから、そこまでの長い道のりを経て青学も実力をつけたことが伺えます。そして、68年にはこれまでで最高の7位にもなり、1976年まで12回連続出場を果たすことになります。このコラム次回からは、いよいよ青学と箱根駅伝について探りましょう!


*このコラムは関連リンクなどから引用させていただいています。

駅伝コラム 2 箱根駅伝の誕生

8月から始まったこのコラム、今回は一番人気の箱根駅伝の誕生について、です。


最初の駅伝は、前回触れた1917年。京都・東京を結んだ508km(資料によっては516km)の昼夜通してのレースは、東西対抗という企画だったこともあって大成功でした。でも、フィニッシュまでは3日に渡り45時間34分かかっています。ということは、100mを約30秒で進んでいますから、毎分約200mの速度。ジョギング程度のスピードですね。名称も駅伝徒歩競争でした。とは言え、チョンマゲを切って、靴を履く様になってからわずか50年程! 右肩と右足、左肩と左足を交互に出す「ナンバ歩き」から抜け出しつつあった日本人ですから、頑張っていたんですよね。ちなみにこの日本古来の歩き方、相撲の基礎でもあり、実は長距離や坂路には合理的なんだとか。


さて、少し前の1912年、日本も1912年ストックホルム・オリンピックに初めて選手を送っていました。それが、日本マラソン界の父と言われる金栗四三(かなぐり・しそう)。グリコの箱にはランナーが描かれていますが、金栗選手も初代の絵のモデルの1人だそうです。彼は前年のマラソン予選会で、当時の世界記録を27分も縮めましたが、着用していたのは、なんとマラソン足袋!


ストックホルムまでは船と列車の20日以上もかかる足袋…ではなく、旅。しかし、オリンピック大会では日射病で意識を失ってしまったそうです。なんと気温は40℃越えで参加者68選手のうち半数が途中棄権、ひとりは死亡という過酷な大会だったとか。


金栗は、オリンピックに通用する長距離ランナーを日本でも育てたいと願っていました。「それには駅伝だ!」と考えていた彼は、1919年他の同志2名に、駅伝大会開催の夢を熱く語ります。そして3人が思いついたのは、なんと、アメリカ大陸横断駅伝!すごっ!


サンフランシスコからアリゾナ、ロッキー山脈を超え、中西部を通過してニューヨークへ。それが、日本陸上先達の構想でした。その準備としての国内駅伝ということで、アップダウンたっぷりの東京?箱根がコースに!「♪箱根の山は天下の嶮〜」ですから、ロッキーだってモノならず!? そして、翌1920年、2月14日に第1回箱根駅伝が開催されました。コースは、東京・有楽町の報知新聞社前から箱根までの往復。当時の日本社会は、第一次世界大戦後の復興まっただ中で、みんなやる気満々でした。


*このコラムは関連リンクなどから引用させていただいています。

駅伝コラム 1 「駅伝」て、なに?

そりゃ、あの、「お正月に大学生が走ってる、ほら、東京と箱根を往復する…」そうです。箱根駅伝! それも駅伝の1つです。お正月のテレビで中継される駅伝のファンは多いものの、まったく関心のない人も…。2009年に青学が33年ぶりで箱根駅伝に復活ということで、にわかに駅伝を応援することになった人もいますからね。そこで、このコラム第1回は、「駅伝」という古典的な名称からひもときましょう。


駅と伝という2文字から、「何かを区間毎に繋いでいく」ことはイメージできますね。古代中国、ペルシャ、ローマ帝国などで確立された官吏用の交通制度、「駅制」または「駅伝制」がルーツだそうです。唐から日本に伝わり奈良時代に整備されました。中央と地方を結ぶ幹線道路を約30km毎に区切って中継地=「駅」を置き、駅と駅の間を役人を乗せて走る駅馬(速馬)と宿場が用意されていました。また、幹線道路にある郡の役所におかれた馬は伝馬、こちらはゆっくり。「駅伝」の名称はここから来ているそうです。


駅制は歴史につれて変遷しますが、中央集権制には欠かせないシステム。江戸幕府も五街道を幹線道路として駅制を整備しました。というわけで、日本でも昔から使われていた役人のための交通制度の名称が由来です。


では、陸上競技としての「駅伝」はと言うと、誕生は20世紀に入ってから。1917年に東京遷都50年を祝って、報知新聞社が京都から東京まで東海道53次を結ぶレースを主催したのが世界初。当時の日本体育協会副会長、武田千代三郎が「駅伝」と命名しました。コースは、京都三条大橋〜上野忍の池で、東海道508kmを23区間に分けて走り継ぎ、時間は45時間34分でした。両地点には、今も「駅伝発祥の地」の碑があります。(ちなみに、主催の報知新聞社はその後一時讀賣新聞社に統合されますが、また独立して、現在のスポーツ報知に至ります。)


さて、この競技、国際名称はRoad relay(ロード・リレー)とされていますが、そのままEkiden、あるいはMarathon relay(マラソン・リレー)とも呼ばれます。国際ルールではマラソンと同じ42,195kmを6区間で走ることになっています。


アメリカ、オーストラリア、カナダ、オランダ、中国、韓国、ケニアなどでも駅伝大会は開かれています。トラックでなく公道を走ってタスキを引き継ぐのは共通ですが、距離、区間数、走者の人数などはまちまち。人気もまだまだ、本場の日本とはかなり違います。


次回は、箱根駅伝の誕生についてです。

第86回は見事総合8位入賞し、41年ぶりのシード権を獲得することができました。
昨年の記録
総合タイム 11:21'25" 8位/20校
往路 5:39'19" 9位/20校
復路 5:42'06" 11位/20校
選手名 区間タイム 区間順位 総合タイム 総合順位
1 出岐 雄大 1:03'48" 9 1:03'48" 9
2 米澤 類 1:08'54" 5 2:12'42" 5
3 荒井 輔 1:04'09" 7 3:16'51" 8
4 横山 拓也 58'36" 13 4:15'27" 9
5 小嶺 篤志 1:23'52" 10 5:39'19" 9
6 小川 恭正 1:00'50" 7 6:40'09" 7
7 市岡 敬介 1:06'08" 5 7:46'17" 8
8 相原 征帆 1:07'51" 8 8:54'08" 8
9 川村 駿吾 1:13'45" 15 10:07'53" 9
10 鈴木 惇司 1'13'32" 12 11:21'25" 8
第85回箱根駅伝は33年ぶりの出場でした。
33年前の下記学内報の記事

※クリックすると拡大されます。

■ 下記サイトでは、過去の記録や様子などを見ることができます。

青学の歴代記録やユニフォームの変遷などがイラストで見られます。

過去の箱根駅伝のデータを検索できます。

過去の公式プログラムが見られます。